石引 石橋屋
優しさドーピング。。。
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開けた優しさの溢れる場所。
何故人は自と他を入れ替えられないのか?
時空を越えれば自分はあの人であり、あの人は自分なのだ。
もっと身近でよい。
自分は兄弟であり、友人であり、恋人になりうるのだ。
こんな事を言葉にするのも億劫な時に、足が向く。
平日の昼間がよい。
扉を開ける。
パラパラと近所の学生とおぼしき先客が数組。
挨拶をし、カウンターの端に座らせてもらう。
お好み焼きと焼きそばの定食でいこう。
注文をすれば「あいよ!」と元気な返事で、さっそく鉄板で調理にかかる。
何十年と繰り返し体が覚えているのであろう。素早い手つきで料理にとりかかりながらも、おじさんおばさんは顔馴染みと誰かの金婚式の話題で盛り上がっているし、学生連中にも何やら授業の話をしている。
当然常連と新参には温度差がある。
大概の店の場合、なんとなく場にそぐわない異物のような、すでにある「暗黙の了解」に無知なまま紛れ込んだ転校生のような心持ちになることがおおい。
が、ここには居心地の悪さはない。
むしろ少しづつ温度が移り、混ざり合ってしまうような心地よさである。
きっとおじさんおばさんが「開けた人達」であり、そこに横たわる「暗黙の了解」が「厚意」だからである。
愛すべき石引エリアにおいて根底に流れる共通項がある。
「来て、去る者への厚意」
「安い美味い多い」
「ようこその精神」である。
学生が多く、学生とともに育ったエリアゆえ、来る者は去る者である。
ある限定された期間であり、だからこそ気持ちよく迎え、送り出そうという想い。
そしてその想いは、おそらく巣立つ側にも「何か」を残し、それが逆に「里帰り」への郷愁を掻き立てる事もあるだろう。
そういう「開けた愛情」があるからこそ居心地の悪さを感じないのだ。
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