++++++++
人は何かを「消費」して生きています。
あなたにとって「消費」=「お金を使う事」とはなにを意味しますか?
僕にとって、この資本主義経済下においての「お金を使う事」は、「投票」という側面があると考えます。
つまり期待値やサービスに対して、「お金」を使って「投票」しているのです。(=投資)
その「投票」には
「積極的⇄消極的」
「大きい⇄小さい」
「突発的⇄定期的」
「感情的⇄物質的」
などの尺度を置くことができます。
例えば
「税金」「家賃」などは「消極的で大きめ、定期的で物質的」ですし、
「趣味」「旅行」などは「積極的で小さめ、突発的で感情的」などというように。
ここで、考えてみてもらいたいのですが
「投票」する事は
「このお店や商品が無くなって欲しくない」
という意思表示になるのではないでしょうか?
僕の経験ではこの「投票」の仕方を意識しはじめてから
「物選びの感覚」
「サービスや商品への共感力と洞察力」
が増したような気がします。
僕の中では「人生の解像度が上がった」と言えます。
高度な市場主義経済において
「巨大なシステム」の横綱相撲的な商品やサービスの魅力を否定しませんし、僕自身「利用」=「消費」させていただく事もあります。
しかしながら、そういった「消費」には「人間らしさ」が欠落しているように感じる事も事実。
一歩進めて言えば
行きすぎた巨大なシステムはそれ自体が内包する"市場原理主義"で自分の首を絞めているような時代ではないでしょうか?
巨大なシステム自体に組み込まれた「市場が求めるものの追求」は、
システム内の非合理性や、しきたり、慣例などの力学もあり
「これまでの商品の延長線上」のものばかりが産まれる土壌を育ててしまう。
そんな中で、
「市場が予想もできなかった欲しいもの」
を産む事が出来た事例や企業にスポットがあたる。
さらに個人的な見解でいえば、
供給側に「本質的なもの」が欠けている場合と、
受け手側に「本質的なもの」を受け取る「感性」が欠落している場合に
その商品やサービスは「持続しにくい」ように感じます。
市場主義と資本主義経済に関して
僕は概ね賛成の立場ですが、
物事を簡略化する=「型にはめる」事で供給側、受給側双方に「しなやかさ」や「余裕」が失われている気がします。
お店にある商品をスマホで検索し、最安値で買う。
それを「否定」はしません。しかし、気の良い店主と楽しい会話をして買うのであれば、そこに「価値」はある(=最安値との差額を埋めてお釣りがくる)のではないでしょうか?
また「無添加」「無農薬」などを求めながらも、店頭の商品の中からわざわざ奥に置いてある「賞味期限が長い物を取る」行為。
その行為がメーカー側に「添加物を入れる」「ロス率を加味した上で値段を付ける」誘引になる事は明らか。
もっと卑近な例で言えば、その直後に買い物に来た人が「自分の家族や友人」もしくは「自分自身」になり得る想像は、あながち突飛なものではないと思います。
本来あって然るべき「余裕」「こころ」が欠けていると思います。
なぜなら最安値とその次に高いものの差額が家計を致命的に圧迫したり、
遅くとも今週中に食べるであろうものに来週いっぱいの賞味期限をつけなければいけない理由はないと思いませんか?
我利我利亡者的な生き方を続けて、人生単位でどれほど差が出るのかわかりませんが、
そもそも、その人の人生の目的は通帳の残高やただ出来立てを食べる事ではなく、「より多く幸せを感じる事」なはず。
それが大多数の人にとって人生の「目的」だと思います。
そして人は簡単に「目的」と「手段」を履き違えます。(特に簡略化された世界観において)
「お金があれば幸せだ」
「健康であれば幸せだ」
「恋人がいれば(結婚すれば)幸せだ」
などは代表的だと思うのですが
「お金」「健康」「恋人を作る(結婚する)こと」は本来、
「幸せを感じる為の無限にある道具(手段)の一つ」だと思います。
思考を停止し、簡略化された世界観の中で生きることは非常に簡単で、慣れてしまえば抜けられません。
そしてその「簡略化」は逆流するのも簡単です。
「お金があれば幸せ」
→「お金がないと幸せじゃない」
「健康なら幸せ」
→「健康じゃないと幸せじゃない」
「恋人がいれば(結婚すれば)幸せ」
→「シングルだと幸せではない」
マジシャンのように「目的」と「手段」をすり替えることができます。
そしてこれは「権力側」がよく使うレトリックです。
さらにいえば「自分が欲しいものが漠然としている人」ほど、レトリックに引っかかるように感じます。
長くなりましたのでまた次回。
0コメント